diary

加筆修正はめっちゃする

美しい日曜日

 

人がよく幸せと表すことについて、私は美しいという言葉で表していると気付いた。

「幸せ」を辞書で引けば意味が書いてあるし、その言葉が使われる場面を見てきたけれど、23年半生きても自分の言葉にできずにいる。底から満たされた迷いのない状態を指すなら、実現する頃には私が私でなくなっているほど、克服すべきことがあまりに多い。そんな果てもない旅路の先でなければ私は何も愛せないのか?

美しい犬、美しいリビング。美しい季節。

幸せという言葉では抱きしめきれない瞬間たちを、私は、美しいという言葉で愛してきたのかもしれないと。それが愛することだと気付かずに。

「幸せ」とか、「ありがとう」とか、「大好き」とか、私に笑いかけてくれる世界を枯らさないために本当にいろいろと悩んでは不器用な受け取り方ばかりしてきたけれど、「美しい」も喜ぶことのひとつなら、今度はそう生きてみよう。

 

絶対にバッグから出たくない犬
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この日は桜が満開だった

一本の線

手を繋げた。やっとだ。それはすべての物事を完成させる最後のピースで、すべてを0にして、すべてを救済する。

あるべきものをあるべきところに収束させて、物語はハッピーエンドを迎える。ハッピーエンドの良いところは最高の瞬間の続きを考えずに済むところ。現実は続いていくのが前提だ。
お別れを言わないと。嘆くのも喜ぶのも正しくない。限りなく心を透明にして、本当の姿を映していなければならない。

救いなどというのはハッピーエンドと同様、現実では叶わない形でしか成り立たない概念なのだ。これさえあればが叶うとき、現実の姿が見えてくるだけで、良くも悪くもなりはしない。

毒を食らわば皿までの精神でいるべきだ。それでいて矛盾から逃げてはいけない。正しくあろうと思わなければいけないが、正しくあれると思ってはいけない。

本当でなければいけない。何も許してはいけない。ここまで来たなら仕方がない。か細い道しるべがあるだけだ。

 

ごめんね - diary

ごめんね

愛しきれなかった時に口をついて出る言葉なのか。人が私にごめんねと言った。謝ることはひとつもないよ。ありがとう。

私もごめんねでいっぱいだ。お父さんとお母さんの寿命を何年縮めてしまったのだろう。お父さんとお母さんが受け取れるはずだった幸せを、私はどれだけ奪ったんだろう。あげられるだけの全部をくれた。全部踏みにじってだめにした。

私が私でさえなければよかった。嘘のない心でそう思う。どんな子が生まれても愛してくれただろう。ほかの子が生まれてくれて全然よかった。みんなに幸せになってほしかった。
言ってもしかたがないのはわかる。生まれたからには背負わなければいけない。

私が価値のある何事かを為して、人から感謝される人物になって、二人のおかげですと言うのだと、それを握りしめて生きてきた。そのうち命のリミットを考えるようになって、今ではお願いだから長生きしてほしいと顔を見る度思うけど、言おうとすると声が震える。償いきれる分をとうに超えてしまった。

悲しませるために生まれてきたわけじゃない。本当に違う。悲しまなくていいはずの人、全部の悲しみを私にほしい。

私は私としてしか生きられないから、それに徹するつもりだ。この項でそんなもの書きたくない。何もかもまっさらに戻して、大好きとありがとうを伝えられたら。

 

一本の線 - diary

うさぎごはん

(2019/05/22に書かれたものです)

グリーンピース入りのご飯を何と呼ぶでしょう!?」

帰りの生徒で賑わう廊下と扉一枚隔てて、放課後の教室はのどかに時間が進む。そこへ突然やって来た友達が、そんなクイズを投げたのだった。

「うさぎごはんです!」

答える間もなく明かすだけ明かして、友達はどこかへ行ってしまった。

なるほど、うさぎごはん。何もうさぎじゃないのに、確かにうさぎだ。私は完全に納得させられていた。最早屈服に近かった。


高校生活の60秒も占めない出来事だが、そのミッフィーにも匹敵する秀逸なネーミングにショックを受けた私は、密かにしばらく落ち込んだのだ。

(「何もうさぎではないが確かにうさぎ」などという奇妙な説得力はどこから来るのか?その秘密は実際の豆ご飯と「うさぎ」の絶妙なズレにある。白い、ふんわり、薄緑、小さい、春の原っぱ、…繋がっているのにあべこべだ…間違い探しの二つの絵を見比べる黒目のように、意識がこのズレのあいだを忙しなく往来することで、豆ご飯と「うさぎ」は一度還元され、練り直され、パン生地のように漠然としたイメージが生成される。それこそが豆ご飯全体を包括した姿、豆ご飯そのものの姿、豆ご飯の核心だけが浮かんでいるような、不思議な実在感の正体である。命を与えたいなら、説明してはいけないのだ。私は当時絵を描いており、いかに描かずして表すかにこだわっていたが、前述のうさぎごはん理論が活躍しすぎで悔しかった。出しゃばるなうさぎごはん。)
忘れようはずもない。

 

今日の夕食が、例のうさぎごはんだった。

豆にはすこし硬めの炊き上がりが合う。程良いまとまり、薄い塩味。そして、ちらほらのぞく萌黄色の愛らしいこと。ご飯全体がうさぎなのか、豆がうさぎなのか。それともまるで人見知りみたいに、ほんのり香るところだろうか。あまねく存在するうさぎ。

「今日みたいなご飯なんて言うか知ってる?」

「豆ごはんじゃないの?」

ふふふ 違うんだなそれが。
はやる気持ちをおさえ、一応確認しようと検索した画面にはうさぎの飼育に関するページが並ぶ。 “うさぎのエサは何が良い?”、“うさぎのペレットおすすめ7選”、“うさぎの食性と栄養” ……

 

うさぎごはんは?

 

あるはずなのだ。

あまり贅沢できない昔に、豆入りご飯が炊かれるこの季節を楽しみにする人々が、卯月の卯(う)からそう呼んだ、とか。

炊事係の軽食だった豆ご飯おにぎりを、「うさぎ飯(家畜の餌)だな 」と嘲笑するお殿様であったが、ある日こっそりつまんでみたところ驚くほど美味であったので「うさぎ御飯」に格上げして晩年までこよなく愛した、とか。

児童絵本『うさぎごはん』とか。家庭科の調理実習でちょっと水加減が多くなったうさぎごはん、とか。一階から香ばしく立ちのぼってきた夕食の気配が自室にまで漂い始めると同時に「今日はうさぎごはんよ」と呼ばれた懐かしい新学期の記憶、とか……。あるはずなのだ。

「なに、教えてよ」

「ええっと…」

……“【ASMR】うさぎ咀嚼音”、“うさぎのエサの与え方”、“与えて大丈夫?うさぎの飼い方”、“人気のうさぎ エサ ペレットランキング”……

 


えっ。まさか ないの?

 

 

 

 


「うさぎごはんです!」

あの放課後以来、ずっと魔法が掛かっていたらしかった。そうとは知らず解いてしまった。何かがぴょんぴょんっと逃げていって、白い校舎はまたひとつ幻に近付いた。

不確かさをなぞる

 

あるものの存在はどこから存在するんだろう。

「描けないものは見えていない」
受験生のデッサンにおける実用的なアドバイスとしては、胸に刻んでいい。見える が ただ感じるだけでなく、捉える の意味を含むなら、もう少し深い意味でも考えられそうだ。

描こうとして描けないもの。在るのに形を与えられないもの。確かだと言いきれないもの。示せないもの。形がなければ存在できないのだろうか。どの段階で形は認められるのだろう。形があれば存在できるんだろうか。


絵を描いていた頃に立ち返ってみる。物質。物質でないもの。存在そのもの。存在の、さらに向こうの姿。一瞬目を離した隙に、いや見詰めていても次の瞬間には永遠に感じられなくなるかもしれない。決して見失ってはいけないと感じる何かが、存在の瀬戸際で揺れている。

誰でも捉えられるわけではないなら、この私が何としてでも示さなくてはならない気がする。こんなにも世界は深刻なのだ。それに、深刻な何かが不確かなままでは私としても気が休まらない。実は私の気が狂っているだけで、世界には何もないのかもしれない。そんな気持ちで描いていた私にとって、存在の確かさ これは物事を考える際の重要な鍵になった。

 
絵だけに留まらない。寧ろ私が放っておけなかった最大の理由は、それが生きる上での悩みでもあったからだ。私はどうしたら存在できるのだろう。母はどうしたら存在できるのだろう。私が存在していない。存在したい。

「描くこと」(「表現すること」) は、いわば手持ちのノートと筆記具で、私の考えごとの本当のフィールドは生きることそのものだ。生きる中で表現し、描くことを考えることで生きることを考え、しつこく行き来しながら、いつか何かを捉えきろうとしているのだ。

 

(これは、この先書きそうなことなど、自分のあらゆる思想に通ずる考え方の土台を説明しようとしたものです。)