不確かさをなぞる
あるものの存在はどこから存在するんだろう。
「描けないものは見えていない」
受験生のデッサンにおける実用的なアドバイスとしては、胸に刻んでいい。見える が ただ感じるだけでなく、捉える の意味を含むなら、もう少し深い意味でも考えられそうだ。
描こうとして描けないもの。在るのに形を与えられないもの。確かだと言いきれないもの。示せないもの。形がなければ存在できないのだろうか。どの段階で形は認められるのだろう。形があれば存在できるんだろうか。
絵を描いていた頃に立ち返ってみる。物質。物質でないもの。存在そのもの。存在の、さらに向こうの姿。一瞬目を離した隙に、いや見詰めていても次の瞬間には永遠に感じられなくなるかもしれない。決して見失ってはいけないと感じる何かが、存在の瀬戸際で揺れている。
誰でも捉えられるわけではないなら、この私が何としてでも示さなくてはならない気がする。こんなにも世界は深刻なのだ。それに、深刻な何かが不確かなままでは私としても気が休まらない。実は私の気が狂っているだけで、世界には何もないのかもしれない。そんな気持ちで描いていた私にとって、存在の確かさ これは物事を考える際の重要な鍵になった。
絵だけに留まらない。寧ろ私が放っておけなかった最大の理由は、それが生きる上での悩みでもあったからだ。私はどうしたら存在できるのだろう。母はどうしたら存在できるのだろう。私が存在していない。存在したい。
「描くこと」(「表現すること」) は、いわば手持ちのノートと筆記具で、私の考えごとの本当のフィールドは生きることそのものだ。生きる中で表現し、描くことを考えることで生きることを考え、しつこく行き来しながら、いつか何かを捉えきろうとしているのだ。
(これは、この先書きそうなことなど、自分のあらゆる思想に通ずる考え方の土台を説明しようとしたものです。)